「八王子祭り」は東京都八王子市で毎年8月初旬に開催される、関東屈指の山車祭りです。江戸時代に始まる伝統的な祭礼で、上の祭り(多賀神社)と下の祭り(八幡八雲神社)が源流です。
彫刻を施した豪華な山車が街を彩り、「千貫神輿」と呼ばれる約3トンの大神輿が1,600人の担ぎ手によって練り歩きます。現在では例年約80万人が訪れ、市民の誇りとして親しまれる一大イベントに成長しました。
本記事では八王子祭りの起源から現代までの歴史をわかりやすく解説します。
目次
八王子祭りの歴史【起源から現代まで】
八王子祭りは江戸時代後期から発展してきた長い歴史を持つ夏祭りです。当初は多賀神社と八幡八雲神社の例大祭がそれぞれ行われ、各町会が山車や神輿を出して賑わいました。
以下では祭りの始まりから昭和戦前・戦後の復興までの流れを追っていきます。
江戸時代の始まり
八王子祭りの源流は江戸時代後期にさかのぼります。当時、多賀神社(上の祭り)と八幡八雲神社(下の祭り)の例大祭が主要な夏祭りでした。
各町では山車や神輿が練り歩き、人形を飾った高い山車が街を賑わせました。勇壮な祭囃子に乗せて進む山車は、まさに祭りの原点と言えます。
明治・大正時代の山車文化
明治以降、山車のデザインは大きく変化しました。電線の普及で高い人形山車は巡行が難しくなり、低めの鉾台や堂宮造りの山車が導入されました。
これらの山車には豪華な木彫り装飾が施され、各町会は龍や獅子などの精巧な彫刻を競い合いました。この技術革新が現在に続く八王子の山車文化の基盤となっています。
昭和時代から現代への移り変わり
昭和に入り八王子祭りはさらなる盛り上がりを見せました。1936年には市制20周年記念で20台の山車がパレードに参加し、各町会の技術が競演しました。しかし太平洋戦争が始まると祭りは縮小し、1945年の八王子大空襲では多くの山車が焼失しました。
戦後、祭りは地域の復興と共に再生を果たします。1961年に「八王子市民祭」が開催され、1966年の市制50周年では12台の山車が参加して祭りは完全に復活しました。1968年に正式に「八王子まつり」と改称されて以降、伝統と新しさが融合した形で祭りは発展し続けています。2017年には19台の山車が揃う「山車総覧」が開催され、現在でも山車や神輿が文化財に指定され、市民の誇りとなっています。
上の祭りと下の祭り~源流と成り立ち
八王子祭りの原点となる「上の祭り」と「下の祭り」は、それぞれ多賀神社と八幡八雲神社の例大祭です。かつては上の祭りが7月、下の祭りが8月に別々に開催されていましたが、現在では両方を合同で「八王子まつり」として行っています。まずはそれぞれの祭りの特徴を見ていきましょう。
上の祭り(多賀神社)の由来
上の祭りは多賀神社(元本郷・宮町地区)の例大祭で、古くから地域の守り神として親しまれています。例大祭は毎年7月に開催され、氏子町会連合による「大神輿」が境内から出発します。この大神輿は浅草寺から譲り受けた千貫神輿(約3トン)で、約1,600人の担ぎ手がこれを練り歩かせます。勇壮な渡御は上の祭りの大きな見どころです。
下の祭り(八幡八雲神社)の由来
下の祭りは市中心部の八幡八雲神社(八日町・横山町地区)の例大祭で、例大祭は毎年8月に開催されます。八幡八雲神社からは「宮神輿」が出御し、氏子町会が連携して街中を巡行します。戦前には八幡八雲神社の神輿と多賀神社の山車が同時に巡行したと言われますが、現在でも多くの山車と神輿が交互に街を彩ります。
二つの祭りから八王子まつりへ
現在では上の祭りと下の祭りが合同で「八王子まつり」として開催されています。再興後は19町会の山車が甲州街道やユーロードを交互に巡行し、多賀神社と八幡八雲神社の宮神輿も合同で巡行します。山車と神輿が勢ぞろいする様子は地域の伝統と結束を表し、八王子市民の誇りとなっています。
山車と神輿~華やかな祭りの象徴
八王子祭りの華やかさは、色鮮やかな山車と力強い神輿に表れます。山車は各町会所有の豪華な彫刻山車で、龍や獅子、歴史上の人物などが精巧に彫り込まれています。神輿は氏子地域の守護神を乗せ、多くの担ぎ手が威勢よく練り歩きます。山車と神輿が祭囃子とともに街を彩る様子は圧巻で、八王子祭りの見どころのひとつです。
人形山車の時代
江戸時代後期から明治中期にかけては、人形山車が祭りの中心でした。高い心柱に「岩座」と呼ばれる壇を設け、その上に武者人形や神話のキャラクターなどが飾られました。これらの人形は京都や江戸の名工が精巧に作り上げた美麗なもので、祭囃子に合わせて山車が街を練り歩く姿は華やかでした。人形山車の伝統は、その後の山車文化の発展に大きく貢献しました。
彫刻山車の時代
明治後期以降、人形山車に代わって彫刻山車が主流となりました。彫刻山車は山車側面や幕板に木彫りの装飾を施した豪華なもので、各町会が龍や獅子、歴史上の人物などを題材に精巧に彫り上げました。多くは鉾台造りまたは堂宮造りとなり、低めの設計でも大きな車輪で力強く動く迫力ある山車が誕生しました。現在でも彫刻山車が祭りのハイライトとなっています。
神輿渡御の活躍
山車に加えて神輿も八王子祭りの大きな魅力の一つです。多賀神社の「大神輿」は浅草寺から譲り受けた約3トンの大型神輿で、約1,600人の担ぎ手が勇壮にかつぎます。この千貫神輿の迫力は圧巻です。八幡八雲神社の宮神輿も各町会が連携して渡御し、山車と神輿がともに街を埋め尽くす様子は八王子の伝統文化を象徴しています。
戦後復興から市民祭へ~八王子祭りの再生
戦前の大空襲で多くの山車が焼失した後、戦後は町の復興とともに八王子祭りも再生を遂げました。残った山車をもとに関係者や町の人々が復興に取り組み、1950年代後半には祭り再開の機運が高まりました。1961年には「八王子市民祭」が初めて開催され、市民参加型の山車巡行で市民同士の絆を深めました。
戦中の混乱と山車の焼失
太平洋戦争中、八王子市は空襲の大きな被害を受け、祭りは一旦中断しました。1945年の八王子大空襲で町内の多くの山車が焼失し、戦後の祭り再開には困難が伴いました。しかし住民たちは祭りの記憶を胸に復興への意欲を高め、終戦直後から祭りの再建に取り組み始めました。
八王子市民祭の誕生
1950年代後半には町ぐるみで祭り再開が望まれ、1961年に「八王子市民祭」が正式に始まりました。町会ごとに山車を出す参加型の市民祭で、山車巡行と八幡八雲神社の神輿渡御が復活。一体感を生んだこの市民祭は地域の誇りとなり、1966年の市制50周年では12台の山車が巡行して祭りは完全に復活しました。
八王子まつりへの発展
1968年(昭和43年)、市制50周年記念で「八王子市民祭」は「八王子まつり」と名称変更され、祭りの現在の形が完成しました。以降は伝統を守りながら新たな演出やイベントも取り入れられ、祭りは地域活性化にも貢献する夏の恒例行事となっています。現在は例年8月に開催され、19台の山車と大神輿によるパレードが八王子の街を彩り、多くの市民や観光客を魅了しています。
現代の八王子まつり~最新の開催概要と魅力
令和時代の八王子まつりは例年8月上旬の3日間(金~日曜)に開催されます。八王子駅北口から甲州街道が歩行者天国となり、19町会の山車が順に巡行します。多賀神社と八幡八雲神社の大神輿も合同で渡御され、例年約80万人以上の観客で賑わいます。山車や神輿に加え、地元芸能の奉納や屋台も並び、八王子の夏を彩る一大イベントとなっています。
開催概要:例年のスケジュール
八王子まつりの年間開催概要は以下の通りです。
- 開催期間: 毎年8月第1金曜~日曜(3日間)
- 山車の数: 19台(彫刻山車)
- 神輿: 多賀神社の千貫神輿(約3トン)ほか宮神輿
- 来場者数: 例年約80万人以上
祭りの見どころ:山車・神輿・イベント
八王子まつりの見どころは19台の彫刻山車と「千貫神輿」の迫力あふれる巡行です。夜になると提灯を灯した山車が幻想的に街を彩り、お囃子の音色が熱気をさらに盛り上げます。神輿は「ワッショイ」の掛け声とともに威勢よく担がれ、多くの観客を魅了します。また祭り期間中は郷土芸能の奉納や花火、大道芸など多彩なイベントも行われ、子どもから大人まで楽しめる催しが盛りだくさんです。
地域への活力と伝統の継承
八王子まつりは地元に根ざした祭りで、地域活性化や郷土愛の醸成にも貢献しています。祭りの準備や運営には多くの住民や町会、ボランティアが参加し、世代を超えた交流を生み出します。また、山車や神輿の制作・保管には高度な伝統技術が必要で、祭りを通じて職人技術の継承が図られています。このように八王子まつりは地域の結束を強める一大行事として、今後も受け継がれていくことでしょう。
まとめ
以上のように八王子祭りは、江戸時代から続く長い歴史を持つ伝統行事です。上の祭り・下の祭りで育まれた山車と神輿の文化が融合し、戦後の再興を経て現在では華麗な彫刻山車19台と大型神輿によって8月の街を彩ります。祭りのクライマックスでは約1,600人もの担ぎ手が繰り出し、その圧倒的な迫力に観客は息を呑みます。この八王子まつりの歴史を知ることで、伝統の重みや地域の結束の強さを改めて実感できるでしょう。
八王子市役所
八王子市広報
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